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松江杵築往還を歩く1 —西代橋から武志土手下まで—

約1000m
西代橋玉木家墓地御杖桜伊丹堂河川敷公園 p1 p2 p3 p4 p5

地図1 松江杵築往還(西代橋〜武志土手下)
©背景地図:地理院タイル

松江杵築往還は、平田の市街地から一畑電車の古土手踏切を通って西代橋北詰に至ります[11]
このあたりの斐伊川土手は西代土手と呼ばれています。斐伊川下流から左岸土手に出雲路自転車道(県道351号線、堤防天端道路)が通っていてます。

写真1 西代土手から見た斐伊川上流の風景
撮影2025年8月

写真1は、西代土手(西代橋北詰)から斐伊川上流を眺めた風景です。写真の右側にあたる堤内には耕地が北山麓まで拡がっています。北山の山脈は旅伏(たぶし)山から大社までの連なっています。斐伊川土手は、左手(南)に大きく湾曲していることがわかります。出雲ドームと左に少し離れて県立中央病院も見えます。
大土手には道が2本あります。 一つは下流から続いている出雲路自転車道です。もう一つは、堤内側(川裏)法面(のりめん)を一段下がった小段(こだん)にある今市平田線(県道159号線、堤防小段道路)です。

斐伊川右岸(斐川町)側には、 三瓶山や仏経山が見えます。

昔の土手往還は、出雲自転車道と同じ堤防天端道路であったと考えられますが、道路の変遷などを十分に確認できる資料は見つかっていません。ここから小段道路(県道出雲平田線)を武志に向かって進みます。

往還の右側(北側、堤内)に耕地が広がっています。江戸時代に斐伊川土手が整備され、広大な耕作地ができあがりました。北山の麓には国道431号が通っています。
土手下に裏川(農業用水路)があります。これは、大津から平田まで延びています。ここから武志土手の南端(北島境)までの間に、斐伊川からの取水樋が、三ヶ村(さんかそん)樋、 国富(くんどみ)樋、 登立樋武志大樋と4つあります。

しばらくすると、土手下の用水路脇に玉木家の墓地が見えます。写真2は、上流を見た周辺の風景です。写真中央の用水路脇に玉木家の墓地があります。玉木家(旧西代村)は、江戸時代の斐伊川治水工事で流路変更や代替地の要望などで大きな役割を果たした豪農です[3][4]

写真2 玉木家墓地周辺の風景
撮影2025年8月

少し進むと西代土手から美談土手になります。江戸時代の絵図[8]から、このあたりに一里塚があったことがわかりますが、正確な位置は不明です。三ヶ村樋と取水振り分けの調整水門があります。

写真3 お杖桜・水家墓地周辺の風景
撮影2025年4月

美談土手には、往還脇のお杖桜と土手下の水家(児玉家)墓地があります。お杖桜の伝承は、斐伊川治水工事に関わる松江藩主松平直政と豪農水伝蔵(旧美談村)の話を伝えています[1][2][3][5][10]写真3は、お杖桜と水家(児玉家)墓地周辺の風景です。写真中央の土手脇にお杖桜があり、その隣の土手下に墓地があります。この付近で大土手が大きく湾曲していることがわかります。お杖桜の先に、国富樋があります。

美談土手から東林木土手へ入ると、伊丹堂(いたみどう、 通称 いたんどう、伊丹堂地蔵)があります。写真4のように往還脇にお堂(地蔵堂)があります。伊丹堂には、江戸時代の斐伊川治水工事に関わる言い伝えがあります[6][9][12]

写真4 伊丹堂周辺の風景
撮影2025年8月

なお、伊丹堂近くに三軒茶屋と呼ばれた複数の茶屋もありましたが、斐伊川土手改修工事のために撤去されました[6]。昔は対岸(斐川町)との間に伊丹堂橋(いたんどばし)がありました[11]

写真4からわかるように、北山との間に耕地などが広がっています。戦国時代に山城(鳶ヶ巣城)があった鳶ヶ巣(とびがす)山が見えます。

北山沿いには国道431号と東林木バイパスがあります。東林木バイパス工事などで青木遺跡と山持遺跡が見つかりました。青木遺跡(東林木町)では、最古級(約2,000年前の弥生時代)の四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ) などが見つかりました。山持遺跡(西林木町、日下町、里方町)では、縄文時代から江戸時代までの遺物などが見つかっています。奈良時代に牛を使った水田耕作(牛耕)での牛の足跡も多数発見されています。
平地には、出雲市総合体育館(出雲だんだんトマトアリーナ.西林木町)、島根県立大学出雲キャンパス(西林木町)、北陵中学高等学校(西林木町)があります。また、出雲ドーム(矢野町)も見えます。

伊丹堂を過ぎると登立樋があります。農業用水として鳶巣・川跡地区などで使われています。
このあたりから武志土手になります。江戸時代には、武志土手、伊丹堂付近で土手が決壊し、杵築(大社町)まで一面が湖のようになったという記録もあります[7]

大土手から道に沿って下りると、裏川沿いに子安観音堂があります。

ここで斐伊川土手の天端に上がると、周辺が一望できます。
写真5は、武志土手から下流(西代橋方面)を見た風景です。斐伊川土手は、西代橋から武志土手の間で大きく湾曲していることがわかります。写真からはわかりませんが、土手は伊丹堂やお杖桜などの付近では局所的に曲がり、全体としては蛇行しています[1][3]。江戸初期から昭和までの長い間にわたる斐伊川治水の大工事を通して、今のような複雑な形状になっています。

写真5 武志土手から見た下流の風景
撮影2025年8月

武志土手の河川敷(堤外)は水田や畑がある耕作地でしたが、今は斐伊川河川敷公園などになりました。河川敷には、国譲り神話を伝える膳夫(かしわで)神社がありましたが、明治の頃に武志町内の鹿島神社に合祀されました。膳夫神社跡に石碑があります。

対岸には西代橋からも見えていた仏経山が見えます。 今も江戸時代から斐伊川両岸をつないでいる井上橋(いあげはし、通称 やあげばし)があります。当時は往還を利用する人たちには重要な橋でした。今も利用されています。

関連項目 

松江杵築往還
松江から平田を通り斐伊川堤防沿いに武志まで、そこから西進し高岡方面へ進む道路です

松江杵築往還を歩く2
松江杵築往還を子安観音堂(武志)から竿井手川高岡・髙浜境界交差点(一丁地蔵)まで歩いてみました

松江杵築往還を歩く3
松江杵築往還を竿井手(高岡・里方交差点)一丁地蔵から神門通りまで歩いてみました

参考資料 

[1] 斐川町誌編纂委員会.「斐川町史」、pp. 1038-1058(近世の斐伊川、東流と統合)、昭和47年(1972).

[2] 平田市老人のための明るい町推進協議会.「ひらたしのむかし話」、 pp.20-24(御杖桜)、 昭和54年(1979).

[3] 平田市誌編さん委員会編.「平田市誌(復刻版)」.pp.289-298( 斐伊川大統合の完成)、平成6年(1994).(初刊は昭和44年(1969))

[4] 国富郷土誌編纂委員会.「国富郷土誌」、pp.138-142( 西代の玉木家)、平成9年(1997).

[5] 国富郷土誌編纂委員会.「国富郷土誌」、pp.180-183( 斐伊川の流れとお杖桜)、平成9年(1997).

[6] 国富郷土誌編纂委員会.「国富郷土誌」、pp.489-490(伊丹堂)、平成9年(1997).

[7] 長瀬定市編.「斐伊川史(復刻版)」、pp.92-93(元禄十五年の出雲大洪水)、出雲郷土史刊行会、昭和52年(1977).

[8] 島根大学.「出雲國十郡絵図」、 島根大学付属図書館デジタルアーカイブ. https://da.lib.shimane-u.ac.jp/content/2314(2025年8月22日閲覧 ).

[9] 島根県教育委員会.「島根県口碑伝説集(簸川郡)」、pp.19-20(直政公と観音寺j)、歴史図書社、昭和54年(1979).

[10] 島根県教育委員会.「島根県口碑伝説集(簸川郡)」、pp.32-33(斐伊川堤防の御杖桜)、歴史図書社、昭和54年(1979).

[11] 島根県教育委員会.「松江美保往還・松江杵築往還・巡見使道:歴史の道調査報告書第10集」、pp.21-40(松江杵築往還の概観)、1999年3月.

[12] 鳶巣郷土誌編集委員会編.「ふるさと鳶巣物語」、pp.82-83(いたみど橋と伊丹堂地蔵)、出雲鳶巣自治協会、2005年.

履歴 

∆0 2023-01-26 新規登録

∆1 2025-10-29 再構成

∆2 2026-02-08 公開

おすすめ 

斐伊川
島根県東部を流れる一級河川です。源流は船通山です

斐伊川河川敷公園
野球場、ターゲットバードゴルフ場、ラジコンカーサーキットなどがあります

伊丹堂
大土手松江杵築往還脇にあるお堂です。地蔵尊が祀られています。

斐伊川土手の御杖桜
斐伊川大土手の美談土手に、お杖桜と呼ばれる桜の木があります

川跡の河川交通
道路網、河川、用水路、公共交通(電車バス)など

武志団地広場
公園・広場 武志団地内にあります

松江杵築往還を歩く2
松江杵築往還を子安観音堂(武志)から竿井手川高岡・髙浜境界交差点(一丁地蔵)まで歩いてみました

松江杵築往還を歩く3
松江杵築往還を竿井手(高岡・里方交差点)一丁地蔵から神門通りまで歩いてみました

一畑電車
一畑電車は、電鉄出雲市駅と松江しんじ湖温泉駅の間、川跡駅と出雲大社前駅の間を運行しています

松江杵築往還
松江から平田を通り斐伊川堤防沿いに武志まで、そこから西進し高岡方面へ進む道路です

最終更新日: