斐伊川 ひいかわ
川跡(かわと)地区の東端には、出雲平野を形成した斐伊川が中国山地から宍道湖へと流れています。斐伊川は、国が管理する一級河川で、下流域は全国でも希な天井川です。これは、上流域でのたたら製鉄のための砂鉄採取の鉄穴流し(かんなながし)によるものです。

写真1 北神立橋から見た斐伊川(上流)
撮影2020年

写真2 北神立橋から見た斐伊川(下流)
撮影2020年
斐伊川は、出雲風土記(天平5年(733)完成)では「出雲大川(いずものおおかわ)」と呼ばれ、出雲平野を西に流れて神門水海(かんどのみずうみ)(現在の神西湖の前身)に注いでいると書かれています[1][2]。また、古事記の「八岐大蛇/八俣遠呂智(やまたのおろち)伝説」にもあるように、古来から氾濫を起こして、流域に多大な被害をもたらし恐れられていました[2][4]。 現在のように宍道湖へ流れるようになったのは、江戸時代(寛永年間 1624-1644)に松江藩主京極若狭守忠高が堤防を築く大規模な治水工事を行ってからです。なお、堤防は次の藩主松平直政の時代に完成しました。このことから、斐伊川の武志(たけし)土手は若狭(わかさ)土手と呼ばれています[5][6]。なお、風土記編纂の頃から現在までの長い間には、斐伊川は西や東への流路(河道)があったことがわかっています[2][3].
昔から斐伊川の流水は農業用水として利用されていました。現在、川跡地区の農業用水路には、竿井手(さおいで)川、上井手(わいで)川、周井手(しゅういで)川、登立(のぼりたて)用水路があります。取水には武志大樋と登立樋門があります。しかし、 天井川であるため、流水の多くが伏流水となり、用水確保が重要な課題でした。このため、堤防沿いに小さな盛土を設け、表流水や伏流水を受けて取水する「鯰の尾(なまずのお)」と呼ばれる取水方法が江戸時代から続いています。この水路が斐伊川独特の景観を形成するとともに、生きものに適した多様な河川環境を作っています。中州や宍道湖への流入域などでは、渡り鳥の渡来・越冬地にもなっています。高水敷(こうすいしき。コラム高水敷参照)では野鳥が生息、繁殖しています。
高水敷
通常に川の水が流れている部分を低水路(ていすいろ)、増水したときに冠水する部分を高水敷(こうすいしき)といいます。これら高水敷と低水路をあわせて河川敷と総称します。

図1 高水敷
作成2020年
参考資料
[1] 秋本 吉郎校注.「風土記」、 pp.93-256(出雲国風土記)、 日本古典文学大系2、岩波書店、昭和46年(1971).
[2] 斐伊川改修40年史編集委員会.「斐伊川改修40年史」、建設省出雲工事事務所、1964年.
[3] 国土地理院.「治水地形分類図(出雲今市、大社、平田)」.https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/fc_list_b.html (2025年11月24日閲覧).この地図には斐伊川の旧河道が描かれています.また、島根県立図書館に所蔵されている古絵図にも斐伊川の流路が描かれています.https://www2.library.pref.shimane.lg.jp/webmuseum/ (2022年9月7日閲覧).
[4] 倉野 憲司、武田 祐吉校注.「古事記 祝詞」、pp.84-91(須佐之男命の大蛇退治)、日本古典文学大系1、岩波書店、昭和46年(1971).
[5] 黒澤 長尚編.蘆田 伊人編集校閲.「雲陽誌(松江藩地誌)」、p.284(神門郡武志の条)、大日本地誌体系42、雄山閣、昭和41年(1966).
[6] 郷土誌川跡編纂委員会.「郷土誌川跡」、郷土誌川跡刊行委員会、平成3年(1991).
履歴
∆0 2019-07-15 新規登録
∆1 2021-03-20 写真、図差し替え追加
∆2 2021-03-30 公開
∆3 2022-09-07 流路(河道)部分修正、参考資料追加
∆4 2024-05-01 治水地形分類図リンク修正
∆5 2024-12-21 識別子変更
∆6 2025-11-24 治水地形分類図リンク修正
地図
©背景地図:地理院タイル
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