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忠魂碑 ちゅうこんひ

川跡コミュニティセンターの敷地内に、川跡地区の戦没者を慰霊する忠魂碑があります。これは、昭和33年(1958)4月川跡小学校校庭(当時)に再建されたものです。同じ位置に昭和10年(1935)3月10日に忠魂碑が建立されましたが、当時の経緯を記録した資料等が見つかっていないため、詳細は不詳です。

写真1 昭和33年(1958)に再建された忠魂碑
撮影2025年3月

忠魂碑は、写真1のように川跡コミュニティセンターの敷地にあります。
昭和10年(1935)の建立時の忠魂碑は、川跡村小学校校庭の東側に位置し、碑の前に校庭が拡がっていました。郷土誌川跡[2] p.143 に、木造本校舎(明治42年竣工)と西校舎(大正13年増築)が写っている写真(撮影時期不詳)があります。この写真から推察すると、小学校校庭東側の忠魂碑の北側には奉蔵庫もあったようです。

郷土誌川跡[2] p.365 には、碑銘「忠魂碑」が陸軍大臣 林銑十郎(はやし せんじゅうろう)の書、昭和10年3月10日の建立と書いてあります。また、忠魂碑の側面には、日清、日露、支那事変、大東亜戦争の戦死、戦病死者名(約110名)が刻字されているとも書いてあります。

ところで、忠魂碑が建立された昭和10年(1935)3月10日は特別な日です。 当時、3月10日は「陸軍記念日」でした。明治38年(1905)3月10日は、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入城した日です。明治39年(1906)3月10日が第1回陸軍記念日で、昭和10年(1935)3月10日は、日露戦争後30年にあたる陸軍記念日三十周年の日でした。三十周年記念日に合わせて忠魂碑が建立されました。他地域にも、同じ日に建立された忠魂碑(碑銘も林銑十郎書)があります。

戦前の忠魂碑などは、戦意高揚など国家の統一的な枠組みをもって建立されていました。終戦後の昭和20年(1945)12月にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から「神道指令」が出され、忠魂碑などが撤去、破棄されました。校庭にあった忠魂碑は埋められた(埋没)と云われています。

昭和27年(1952)4月28日の対日平和条約(サンフランシスコ平和条約)発効によって、「神道指令」は廃止となりました。このあと、多くの地域で忠魂碑などの再建が行われました。

最初に述べたように、川跡小学校校庭にあった忠魂碑は、石碑に書かれているように昭和33年4月に元の位置で再建されました。
しかし、再建された忠魂碑は単純に元の碑の再建ではありません。戦前・戦中とは異なり、忠魂碑は戦争で亡くなられた方々を慰霊するとともに、平和な社会への願いが根底にあります。このような社会情勢や地域の人たちの思いが込められた忠魂碑であると考えられます[3]

終戦後から再建までの間の様子も明らかではありませんが、 忠魂碑の石垣造の土台部分を残して、二宮金次郎の像があったようです。川跡小学校校庭の二宮金次郎像を覚えておられる方もあると思います。

このように、川跡地区の忠魂碑建立、および再建に関する資料が見つからないため、当時の状況は詳しくわかりません。しかし、大社地区における忠魂碑建設と撤去に関する資料[1]によって、当時の多様な状況を窺い知ることはできると思います。

写真2 多福寺境内にある凱旋祈念碑
撮影2025年3月

また、多福寺(高岡町)境内に、写真2のような明治30年(1897)7月20日建立の凱旋紀念碑があります。これは、日清戦争(明治27-28年)戦役従軍者(4名)の祈念碑です。

参考資料 

[1] 花谷浩.「出雲大社祖霊社境内の忠魂碑建設および撤去次第」、大社の史話、第186号、pp.21-32、平成28年(2016)3月31日.

[2] 郷土誌川跡編纂委員会.「郷土誌 川跡」、郷土誌川跡刊行委員会、平成3年(1991)12月1日.

[3] 松尾充晶.「島根県内の忠魂碑—戦死者への社会的姿勢映す—」、いまどき島根の歴史140、山陰中央新報記事、2020年8月16日.

履歴 

∆0 2019-07-31 新規登録

∆1 2025-10-07 写真本文追加

∆2 2026-02-08 公開

地図 

©背景地図:地理院タイル

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