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旧海軍大社基地 —出西飛行場—

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月から、3ヶ月間の突貫工事で、斐川町出西(しゅっさい)地域に海軍大社基地が設営されました。主滑走路は新川の跡地(昭和15年廃川)に建設されました。出西飛行場、あるいは新川飛行場としても知られています。戦後、多くの調査が行われ、記録も公表されています[1][2][3][5][6][7]

当時、大社基地へは爆撃機「銀河」で構成された部隊が配備されました。終戦までに複数回銀河が出撃した記録が残っています。また、周辺では墜落事故も起きています。昭和20年(1945)7月に銀河が作戦行動で出撃したとき、斐伊川土手に激突する事故も起きました[3][5][6][8]

昭和20年(1945)7月28日に、大社基地は艦載機による攻撃を受け、死者も出ました [3][4][5][6][8]。滑走路東側にあった山陰本線段原鉄橋(だんばらてっきょう)には、今も写真1のように艦載機の銃弾痕が残っています。また、大社基地への攻撃機は、日本海で天山丸なども攻撃しました。後日、天山丸は沈没しました。 なお、大社基地への攻撃は、この日の一度だけだったようです[8]

写真1 JR西日本山陰本線の段原鉄橋に残る銃弾痕跡
撮影2021年1月

当日は、山陰各地で艦載機による攻撃を受けました。湯町(松江市玉湯町湯町)の水上機基地への攻撃、湯町布志名や大山口駅(鳥取県大山町)近くでは列車への銃撃があり、多くの人たちが死傷しました[4][8]。なお、米軍は、かなり早い時期から、継続的に山陰地域の偵察を行っていたこともわかっています[8]

戦後、大社基地跡の主滑走路は、自衛隊の飛行訓練などにも使われましたが、その後は使用されないままになっていました。跡地は、2002年頃から公共的施設や民間事業者への払い下げがはじまりました。2021年に、残っていた滑走路部分が民間事業者に売却されました。

写真2は、旧海軍大社基地の遠景(空中写真)です。写真左下の斐伊川から分かれて右上に至る部分が新川の跡地で、写真の中央左下部分が大社基地主滑走路跡です。新川の跡地に滑走路がつくられていたことがよくわかります。滑走路の南側(写真右下)には山が迫っており。ここには、今も多数の施設跡が残っています。なお、写真2には写っていませんが、新川跡地の宍道湖畔部分に、現在の出雲縁結び空港があります。

写真2 旧海軍大社基地の遠景
©写真提供 出雲弥生の森博物館

写真3は、2021年に南西側から撮影された主滑走路周辺の風景です。 滑走路は全長約1,500m、幅が60mのコンクリート舗装されたものでした。滑走路の西端から約1,000m離れた建物まで滑走路跡が延びています。 滑走路に隣接して宅地がありますが、周辺には耕作地が広がっています。

写真3 旧海軍大社基地の主滑走路
©写真提供 出雲弥生の森博物館, 撮影2021年12月

2025年7月に撮影した写真4からは、主滑走路跡に新しい道路が敷設され住宅地になっていることがわかります。なお、滑走路跡地の西端部分が少しだけ残っています(写真4の下部分)。この滑走路跡地は、平和学習などに活用されています。

写真4 旧海軍大社基地滑走路跡を西端から見た風景
撮影2025年7月

周辺地域には旧大社基地関連の遺跡が多数残っており、戦争遺跡の調査が続いています。出雲弥生の森博物館では、「いつまでも戦後でありたい」のもとに、基地の調査状況などを継続的に公表しています[2]

2025年で戦後80年になります。時が経つにつれて当時の状況を、体験された方や、ご家族から話を聞いておられる方が少なくなっています。川跡地区にも、昭和20年(1945)7月の大社基地攻撃や斐伊川土手の事故などをご存じの人たちがいます。このように、今でも身近なこととして記憶されている人たちがいます。私たちは、一人ひとりが大社基地を身近に感じながら、「いつまでも戦後でありたい」という思いを育んでいくことが必要と考えます。

現在、出雲市文化財課は旧海軍大社基地に関連する情報を収集しています。基地に関連する情報等をお持ちの方は、文化財課(電話 0853-21-6893 FAX 0853-21-6617)へご連絡下さい。

参考資料 

[1] 岩本崇、安藤広道 他著.「戦争遺跡の保存と活用—文化資源としての可能性を探る—」、山陰研究ブックレット14、今井書店、2025年3月.

[2] 出雲弥生の森博物館.「いつまでも戦後でありたい2025 『第338設営隊戦時日誌』~旧海軍大社基地をつくった部隊の記録〜」、出雲弥生の森ギャラリー展(2025-07-02〜2025-09-01)展示パンフレット、2025年7月2日. 展示「いつまでも戦後でありたい」は、2018年から継続的に開催されています.

[3] 陰山慶一.「いま甦る「大社基地」、島根日日新聞、1996年8月.

[4] 黒沢裕太、今井菜月.「80年前 米軍空襲87人犠牲—7・28体験者語る—」、山陰中央新報記事、2025年7月28日.

[5] 槇原吉則、足立正.「川の中の飛行場 汗と涙の青春ー新川基地」、1998年6月.私家本.

[6] 槇原吉則、岡実智子.「川の中の飛行場 西日本の前進基地・新川基地(改訂増補版)」、2012年5月.私家本.

[7] 島根史学会、島根考古学会、戦後史会議・松江.「旧海軍 大社基地遺跡群」、2021年3月8日.

[8] 高塚久司.「日本全空襲一覧に見る島根県関連空襲の全貌(島根県における空襲とその時代No.5)」、古代文化研究、No.24、pp.77-104、2016年3月.著者による調査結果は多数公表されています.

履歴 

∆0 2025-11-18 新規登録

∆1 2026-02-08 公開

地図 

©背景地図:地理院タイル

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最終更新日: