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明治五年の浜田地震 めいじごねんのはまだじしん

明治五年旧二月六日(1872年3月14日)夕方に、島根県浜田市(当時、浜田県浜田町)沖を震源とした地震規模(マグニチュード)M7.1の浜田地震が発生しました。地震発生から150年以上が経過しています。この地震による被害は、島根県に集中しましたが、軽微な被害は九州有明海沿岸から京阪神まで及んだそうです。浜田地震では死者555名、負傷者585名、住家全潰4,527棟、山崩れ6,633ヶ所などの大きな被害が発生しました[9]。震源に近い浜田市や周辺地域では震度7(最大震度)と推定されています。出雲平野(当時の神門郡など)では、飛び地的に大きな被害があったことが報告されています[3][6][7][14]。 

当時は、廃藩置県(明治四年七月十四日)の翌年であり、さらに明治五年十一月に明治の改暦が布告され、12月2日には新暦(グレゴリオ暦)に替わるなど社会体制は揺れていました。このような状況下で、浜田県は地震発生後の状況などを政府へ報告し、救援を要請しています。政府から救助金が支払われています。また、被災者への炊き出しなども行われたことがわかっています[7][9]

現在のように地震や災害の状況などの系統的・科学的な調査などの環境が十分に整っていませんでしたが、当時の人たちの記録は残っています[9]。地震発生から40年後の大正元年(1912)に、浜田測候所(浜田特別地域気象観測所)は「濱田地震 : 旧明治五年旧二月六日」を発行しました[6][14]。また、多くの郷土誌などにも地域ごとの震災状況が記載されています。これらの資料は、「地震史料集テキストデータベース( 東京大学地震火山史料連携研究機構)」で閲覧できます[12]

資料[6][7][14](地震から40年後の調査、集計で不正確なところがあると書いています)から、簸川郡(調査当時)では、全数23,948戸に対して潰家482戸、半潰家618戸、死者15名、負傷者6名と記録されています。川跡村(432戸)では、潰家12戸、半潰家8戸、死傷者なしと記載されています。周辺地域の園、荒茅、高松、杵築、遥堪、高浜、国冨、久木や久村の各村で、川跡村を越える多くの潰家、半潰家などがありました。

浜田[5]は当時の新聞記事から、倒壊家屋(百分率)は大社町(70%)、遥堪村(30%)、国富村(29%)が最も多く、この地域(特に北山沿いの地域)の震度が大きかったと推察しています。耕地の隆起や陥没、地割れ、さらには水泥土の噴出(液状化現象)なども各地にあったことがわかっています。出雲平野の北山沿いの地域に地震みち(異常震域[13])があるといわれていますが、このことは被災状況からもわかります。出雲平野は震源からかなり離れていますが、被害は周辺地域よりも大きかったことがわかります。

浜田地震から25年後の明治29年(1896)2月に建立された震災祈念之碑(写真1)が、浜田市牛市町の浜田川河岸にあります[8][11]。碑文には、『天地変動はいつ起こるかわからない。普段から災害の備えをしておくことが必要である。(中略) 平穏な暮らしの中にあっても、災いが起こることを忘れず、普段の生活の中でも災害を忘れないことを心がけて欲しい』と書かれています[4]

写真1 浜田地震震災紀念之碑
(国土地理院ウェブサイト 自然災害伝承碑[8]から転載).

最初に述べたように、浜田地震は明治になって最初の大地震でした。地震観測体制などは整っていませんでした。明治13年(1880)の横浜地震をきっかけに、世界で初めての地震学を専門とする「地震学会」が設立されました[1]。また、明治24年(1891)10月28日には濃尾平野北部で日本史上最大級の内陸地震(直下型地震)である濃尾地震(M8.0)が発生しました。この地震対応から、メディアによる報道、科学的な調査機関(震災予防調査会)の設置や、耐震建築の研究など、現在の地震対策の原型が生まれました[2][8]

参考資料 

[1] 防災ログ.「世界初の地震学会誕生のきっかけになった横浜地震」. https://bousailog.com/news/20220217/ (2025年6月20日閲覧).

[2] 防災ログ.「濃尾地震 近代地震対策の原型をつくった巨大地震」. https://bousailog.com/news/nanbu-20201029/ (2025年6月20日閲覧).

[3] 中国建設弘済会.「浜田地震 【明治5(1872)年3月14日】」、 中国地方の自然災害記録(明治時代以降). https://chugoku-archives.jp/disaster/pdf/disaster_M5.3.pdf (2021年9月19日閲覧).

[4] 浜田高校歴史・社研部.「震災紀念之碑(碑文の現代語訳)」. https://stroly.com/maps/1516841895/ (2025年6月23日閲覧).

[5] 浜田靜子.「両度の大震災と地震道の仮説(一)、(二)」、大社の話、第7号 pp.4-6、および第8号pp.14-15、昭和26年(1951)1月10日、および2月15日.

[6] 浜田測候所.「濱田地震 : 明治五年舊二月六日」、濱田町(島根県) : 島根縣立濱田測候所、1912年.

[7] 今村明恒.「明治五年ノ濱田地震」、 震災豫防調査會報告、第77号、pp.43-77、震災豫防調査會、1913年10月20日. http://purl.org/coar/resource_type/c_6501 (2025年6月23日閲覧).

[8] 国土地理院. 自然災害伝承碑「浜田地震(1872年3月14日)」. https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/bousaichiri41074.html (2025年6月20日閲覧).

[9] 水田敏彦、鏡味洋史.「1872年浜田地震の被害調査報告および関連資料の文献調査」、日本建築学会技術報告集、第26巻、第64号、pp.1276-1281、2020年10月. https://www.jstage.jst.go.jp/⋯ja/ (2025年6月23日閲覧).

[10] 内閣府防災情報のページ.「1891濃尾地震」、災害教訓の継承に関する専門会議報告書、平成18年(2006)3月. https://www.bousai.go.jp/…index.html (2025年6月23日閲覧).

[11] 榊原博英.「明治5年浜田地震の石碑」、 いまどき島根の歴史、第127話、古代文化センター、2024年6月19日.  https://shimane-kodaibunka.jp/history/history-3320/ (2025年6月20日閲覧).榊原博英.「明治5年浜田地震石碑 災害の記憶と教訓 現代に」、 山陰中央新報記事(いまどき島根の歴史 309)、2024年6月18日. https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/594091

[12] 東京大学地震火山史料連携研究機構(地震研究所・史料編纂所).「地震史料集テキストデータベース」、「明治五年二月六日」で検索可能. https://materials.utkozisin.org/ (2024年11月2日閲覧).

[13] ウイキペディア.「異常震域」(2025年6月20日閲覧).

[14] 渡邉幸男.「 浜田地震:明治五年旧二月六日」、1995年.私家本.浜田測候所が大正元年(1912)に出版した「濱田地震:明治五年旧二月六日」の復刻・編集版.


履歴 

∆0 2025-11-14 新規登録

∆1 2026-02-08 公開

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