川跡地区の東側を宍道湖に流れている斐伊川は、昔、「神門水海(かんどのみずうみ)」に流れ、日本海へとつながっていました(斐伊川の西流)[1] [3] 。古くは川跡地域にも流路がありました。江戸時代に入って、松江藩は斐伊川(ひいかわ)が宍道湖(しんじこ)へ流れるように堤防をつくる治水工事を行いました。これによって、斐伊川が宍道湖へ流れるようになりました(斐伊川の東流)。川跡地域には、斐伊川の流れで形成された微高地(自然堤防跡)や低地(流路・窪地跡)などがあります。微高地には、松江杵築往還(まつえきづきおうかん)などの道路や農業用水路(上井手(わいで)川、竿井手(さおいで)川、周井手(しゅういで)川)があります。また低地には、新内藤川、古内藤川、基幹排水路などがあります[3] 。
地域には東西と南北に通る道があります。東西には、古くから多くの人たちに利用された斐伊川の左岸堤防(西側)を使った松江杵築往還[4] があります。これは、いまも生活道路として利用されています。この他にも、自然堤防跡を使った道が古くからあります。近年には、 国道9号(出雲バイパス)、 斐川出雲大社線(通称:大型農道)、国道431号(東林木(ひがしはやしぎ。通称ひがしはいしぎ)バイパス)が東西に通る主要な道路として整備されました。南北には、古くから出雲平田線、矢尾(やび)今市線、今市川跡日下(くさか)線があります。これらの道路は整備・改修を重ねながらいまも生活道路として使われています。これらの道路整備と共に、 古くからある神立(かんだち)橋や井上(いあげ。通称やあげ)橋の他に、北神立橋や、からさで大橋もつくられました。
公共交通は、自動車の普及と共に大きく変わりました。大正3年(1914)に一畑軽便鉄道(いちばたけいべんてつどう。現在の一畑電車)が出雲今市(いずもいまいち。現在の電鉄出雲市)と雲州平田(うんしゅうひらた)の間で開業しました[2] 。開業時には武志(たけし)駅ができました。当時は、蒸気機関車が走っていました。昭和初期に電化され、松江と出雲大社への路線も整備されました。このとき、出雲、大社、北松江線の分岐点として川跡駅が新設されました。現在、一畑電車は、通勤・通学や観光などに利用されています。戦後には、市営バスや一畑バスの運行が始まりました [2] [3] 。今市高岡経由・矢尾線、今市・武志線、今市川跡経由・大寺(おおてら)線(後に今市川跡経由・日下線に変更)などが、多くの人たちに利用されました。昭和43年(1968)に市営バスがなくなり、すべて一畑バスになりました。時代と共に利用者が減り、昭和63年(1988)に路線が廃止されました。いまは出雲市駅・大寺線と福祉バスのみの運行になりました。
[1] 秋本 吉郎校注、「風土記」、pp.93-256(出雲国風土記)、 日本古典文学大系2、岩波書店、昭和46年(1971)。
[2] 一畑電気鉄道社史編纂委員会、「一畑電気鉄道百年史」、一畑電気鉄道株式会社、平成28年(2016)。
[3] 郷土誌川跡編纂委員会、「郷土誌川跡」、郷土誌川跡刊行委員会、平成3年(1991)。
[4] 島根県教育委員会、「松江美保往還・松江杵築往還・巡見使道」、島根縣歴史の道調査報告書、第10集、 島根県教育委員会 、1999年3月。
2019-09-03 新規登録
2020-01-07 改定
2020-10-08 全面改訂
2020-11-05 一部修正
2021-03-07 一部修正
2021-03-29 地図入れ替え、参考資料修正
2021-03-30 公開