川跡コミュニティセンターの敷地(川跡小学校跡)にある2本の松(黒松)は,明治42年(1909)2月19日の川跡村尋常小学校新校舎落成を記念して,校庭正門前に移転植樹された一里塚の松です[3]。江戸時代には,いまの場所から約200メートル東の松江杵築往還(当時)[4]の一里塚松でした。当時は,この一里塚松を挟んで,東には平田の美談土手,西には高浜の極楽寺付近にも一里塚松がありました[2]。
2本の一里塚松は,移植されてから,既に100年以上経ちますが,元気です。地域の多くの人たちが,この松の思い出を沢山持っています。明治末の川跡村尋常小学校は,大正期には川跡村尋常高等小学校となり大正13年(1924)には新校舎が増築されました。その後は,昭和16年(1941)に出雲市川跡国民学校,戦後に出雲市立川跡小学校となり昭和52年(1977)まで続きました。昭和52年4月,川跡小学校と鳶巣小学校とが統合され,いまの北陽小学校が開校しました。
川跡小学校の跡地には,現在,川跡コミュニティセンターと北陽第2こどもクラブがあります。今でもこの2本の一里塚松は、地域の子どもから大人までみんなを見守っています。
ところで,街道沿いには1里(約3.92キロメートル)ごとに塚(土盛り)がおかれました。これは,織田信長から始まり,豊臣秀吉も普及させたと言われていますが,徳川家康が制度として確立しました。一里塚には目印として木が植えられました。現在,全国で16ヶ所の一里塚が史跡に指定されています[1]。近くでは,出西(しゅっさい)・伊波野(いわの)一里塚(出雲市斐川町)、伊志見(いじみ)一里塚(松江市宍道町 しんじちょう)、安来(やすぎ)一里塚(安来市安来町)が国指定史跡になっています。
[1] 文化庁、「国指定文化財等データベース」、 https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index (2021年1月29日閲覧)。
[2] 石塚 尊俊、「出雲平野とその周辺」、pp.303-306、ワン・ライン、平成16年(2004)。
[3] 郷土誌川跡編集委員会、「郷土誌 川跡」、 pp.291-293 、郷土誌川跡刊行委員会、 平成3年(1991)。
[4] 島根県教育委員会編、「松江美保関往還 松江杵築往還 巡見使道 歴史の道調査報告書」、島根県歴史の道調査報告書、 第10集、 島根県教育委員会、 1999年3月。
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