いまの出雲市川跡(かわと)地区は、中野(なかの)町、武志(たけし)町、荻杼(おぎとち)町、稲岡(いなおか)町、および高岡(たかおか)町の5つの町(地域)から構成されています。
明治初期まで、川跡地区は中野村、武志村、荻原(おぎはら)村、栃島(とちじま)村、稲岡村、高岡村に分かれていました。明治8年(1875)に、荻原村と栃島村とが合併して荻杼村が誕生しました[3]。
明治22年(1889)4月1日に、当時の5つの村が合併して神門(かんど)郡「川跡村」が誕生しました。このとき、「本区域ハ概シテ往古斐伊川ノ川跡タルヲ以テ川跡村トス」として村名(地名)が決まりました[2][3]。
明治29年(1896)8月に、出雲(いずも)郡、神門郡、楯縫(たてぬい)郡が統合されて簸川 (ひかわ) 郡が誕生しました[3]。これにともなって、神門郡川跡村から簸川郡川跡村になりました。昭和16年(1941)2月11日に、今市(いまいち)町、塩冶(えんや)村、大津(おおつ)村、四絡(よつがね)村、高浜(たかはま)村、高松(たかまつ)村、川跡村、古志(こし)村の1町8村が合併して出雲町が誕生しました。続いて、昭和16年(1941)11月3日に、出雲市が誕生しました[3]。このとき、旧村名が、いまのように町名となりました。また、 明治に誕生した地名「川跡」は、出雲市の地区名として残りました。
出雲国風土記[1]にも書かれているように、かつて斐伊川は「神門水海(かんどのみずうみ)」に流れ、日本海へとつながっていました(斐伊川の西流)。江戸時代に、現在のように宍道湖のみに流れるようになりました(斐伊川の東流)[4]。このように、斐伊川は時代と共に流れが変化しています。川跡地区で発見されている遺跡群[5][6]などから、弥生時代には集落があり、古墳時代には集落も増加し、その後も拡大したと考えられています。
[1] 秋本 吉郎校注、「風土記」、 pp.93-256(出雲国風土記)、日本古典文学大系2、岩波書店、昭和46年(1971)。
[2] 濱村 臺次郎、「簸川郡史」、昭和15年(1940)。
[3] 郷土誌川跡編纂委員会、「郷土誌川跡」、郷土誌川跡刊行委員会、平成3年(1991)。
[4] 島根大学附属図書館編、「島根の国絵図」、今井書店、2012年。
[5] 島根大学地域貢献推進協議会、「島根県遺跡データベース」、https://iseki.shimane-u.ac.jp/ (2021年1月29日閲覧)。
[6] 島根県教育委員会、「島根県遺跡地図Ⅰ(増補改訂)ー出雲・隠岐編ー」、島根県教育委員会、平成15年(2003)3月。
Δ0 2019-06-19 新規登録
Δ1 2020-01-06 改定1
Δ2 2021-03-07 一部修正
Δ3 2021-03-29 参考資料修正
Δ4 2021-03-30 公開