昭和14年の干ばつ しょうわ14ねんのかんばつ
気象現象によって発生する災害を気象災害といいます。この中に、一定期間雨が降らないなどの原因で引き起こされる干ばつ(干害)があります(干ばつは、旱魃、干魃とも書きます)。
昭和14年(1939)に、西日本で大干ばつが起きました[1].川跡村(当時)も水不足となり稲作などに必要な水が不足しました。
出雲地域の気象データ[3]から見ると、昭和14年(1939)の降水量は、5月から8月の4ヶ月間に平年よりも大幅に減少しています。図1に、 昭和14年(1939)の月降水量と前後5年間(10年間)の平均月降水量を表します。平均月降水量と比べると、5月から8月の降水量が非常に少ないことがわかります。5月と6月は28%程度の降水量となり、さらに7月、8月には4〜5%となっています。9月中旬(9月16日)に、一日あたりの降水量が当該年(昭和14年)で最大となる62mmを観測しました。9月と10月は平年の50%程度の降水量となっています。なお、 昭和14年(1939)の最大日降水量と年間全降水量は、62mmと912mmです。平均値は、116mmと1,815mmで、ともに約50%の降水量です。
図1 昭和14年(1939)月降水量と10年間平均降水量
作成2024年
川跡地区内を流れる斐伊川水系の上井手(わいで)、竿井出(さおいで)、周井手(しゅいで)の3つの用水路は、当時の川跡・髙浜・四絡・遥堪の四村で構成された水利組合で管理していました。減少した用水を河川流域面積に応じて割り当てる番水注1を、5月21日から運用していました。しかし水量の減少が進み、更なる対策が必要となりました。
川跡地区では、井戸を掘って地下水を灌漑する方法を実施しました。40ヶ所で深井戸を掘削したところ、どの井戸も水量が豊富であったため、ほとんどの田畑が精気を取り戻したという記録があります[2]。昔、斐伊川の流路が川跡地区にもあったことが幸いしたと考えられます。干ばつの影響は、9月16日の大雨(降雨量62mm)で被害の拡大は最小限に抑えることができたそうです。
なお、干ばつ対策として川跡周辺地域が行った番水は、江戸時代に斐伊川水系の灌漑区域で導入されていたことがわかっています[4]。
参考資料
[1] 防災情報新聞社編.「昭和14年西日本大干ばつ−水稲の直播栽培始まる」、防災情報新聞、防災情報機構 NPO法人.(http://www.bosaijoho.jp/reading/years/item_6769.html 2024年11月13日 閲覧)
[2] 出雲市農業協同組二十年史編纂専門委員会編.「出雲市農業協同組合史」、pp.1115-1116、昭59年(1984).
[3] 松江地方気象台、浜田測候所.「島根の気象百年」、日本気象協会松江支部、平成5年(1993).
[4] 長瀬定市編.「斐伊川史 (復刻版)」、pp.253-298(利水)、出雲郷土誌刊行会、昭和52年(1977).
注釈
注1 「番水」 同じ水源あるいは水系のもとで,灌漑用水の不公平な配分からくる収穫の豊凶を避け、また干ばつによる被害を最小限にくい止めるために行われる水配分の制度
注2 「降雨量」と「降水量」について。厳密に言うと純粋に雨だけが降った時の深さを「降雨量」。 降雨量に加え、雪や霰、 ヒョウといった固体が降った場合は、それらを溶かした状態を深さに表したものを降水量 と言います。
履歴
Δ0 2024-11-14 新規登録
Δ1 2024-11-22 本文、図修正
Δ2 2025-05-02 公開
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