現在宍道湖へ流れている斐伊川は、風土記時代には「神門水海(かんどのみずうみ)」に流れていました[1]。神門水海は、さらに日本海へとつながっていました。川跡地区にも流路があったことがわかっています。しかし地域内や隣接地域から、多くの遺跡が発見されており、古くから人々が集落を形成し、生活していたことがわかります[6][8]。斐伊川は、西流と東流が混在していましたが、江戸時代の治水工事によって、宍道湖へ流れるようになりました。
川跡地区には縄文、弥生、古墳時代から中世までの遺跡として、中野美保(なかのみほ)遺跡(中野町)、中野清水(なかのしみず)遺跡(中野町)、高岡遺跡(高岡町)、高浜I遺跡(高岡町)などがあります。これらの遺跡からは、多くの貴重な出土品が確認されています。また、荻杼(おぎとち)古墓(荻杼町)からは中国青磁器(重要文化財)が出土しています。川跡地区隣接地の青木遺跡(東林木町 ひがしはやしぎちょう)や山持(ざんもち)遺跡(西林木町)からも、縄文、弥生時代から中世までの多数の貴重な出土品が確認されています[6][8]。
江戸時代、松江杵築往還(まつえきづきおうかん)沿いの一里塚には松などがありました[7]。川跡コミュニティセンター敷地内(川跡小学校跡)にある2本の黒松は、いまの位置から約200m東にあった松江杵築往還の一里塚松でした。明治42年(1909)に川跡尋常小学校新校舎落成を記念して、ここに移植されました [4]。
いまも地域を東西に通る松江杵築往還[7]の周辺には、薬師寺(中野町)、鹿島神社(武志町)、萬福寺(武志町)、川跡神社 (荻杼町)、善正(ぜんしょう)寺(荻杼町)、多福寺(高岡町)などの神社仏閣があります。
川跡神社は、大正4年(1915)に、それまで地域にあった旧高岡村八幡社、旧栃島村大歳社、旧稲岡村大歳社、旧荻原村八幡社、旧中野村大歳社を合祀して創立されました。今の社殿は、昭和33年(1958)の遷宮で一部改築されたものです。平成6年(1994)年に創立八十年を記念した遷宮、平成26年(2014)に創立百年記念奉祝事業として奉祝祭、境内整備が行われました。神社には別宮稲荷神社と、たくさんの境内社があります。鹿島神社には、古事記[3]や日本書記[5]にある大国主命の国譲りの話に登場する武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天鳥船命(あめのとりふねのみこと)が祀られています。なお、国譲り神話に登場する櫛八玉命(くしやたまのみこと)を祀った膳夫(かしわで)神社が、斐伊川の中州にありましたが、明治44年(1911)に鹿島神社に合祀されました。鹿島神社は、平成28年(2016)に遷宮が執り行われました。
[1] 秋本 吉郎校注、「風土記」、pp.93-256(出雲国風土記)、 日本古典文学大系2、岩波書店、昭和46年(1971)。
[2] 出雲市教育委員会、「出雲ジュンテンドー敷地造成事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 高岡遺跡」、出雲市教育委員、2000年3月。
[3] 倉野 憲司、武田 祐吉校注、「古事記 祝詞」、日本古典文学大系1、岩波書店、昭和46年(1971)。
[4] 郷土誌川跡編纂委員会、「郷土誌川跡」、郷土誌川跡刊行会、平成3年(1991)。
[5] 坂本 太郎他校注、「日本書紀(上)」、日本古典文学大系67、岩波書店、1978年。
[6] 島根大学地域貢献推進協議会、「島根県遺跡データベース」、https://iseki.shimane-u.ac.jp/ (2021年1月29日閲覧)。
[7] 島根県教育委員会、「松江美保往還・松江杵築往還・巡見使道」、島根縣歴史の道調査報告書、第10集、 島根県教育委員会 、1999年3月。
[8] 島根県教育委員会、「島根県遺跡地図Ⅰ(増補改訂)ー出雲・隠岐編ー」、島根県教育委員会、平成15年(2003)3月。
Δ0 2019-09-03 新規登録
Δ1 2020-10-08 全面改訂
Δ2 2020-11-05 一部修正
Δ3 2021-03-07 一部修正
Δ4 2021-03-30 公開