川跡(かわと)は、北山山系と中国山地との間に広がる山陰地方で最大級の沖積平野である出雲平野のほぼ中心に位置しています。地区の東端は斐伊川(ひいかわ)左岸(西岸)です。北側は鳶巣(とびす)地区、西側は髙浜(たかはま)地区・四絡(よつがね)地区、南側は大津(おおつ)地区に接しています。
地名「川跡」は、明治22年(1889)に「中野(なかの)村、武志(たけし)村、荻杼(おぎとち)村、 稲岡(いなおか)村、高岡(たかおか)村」が合併した川跡村として誕生しました。地名の由来は、「この地域がもともと斐伊川の跡であることから」とされています[1] [2] 。なお、荻杼村は、明治8年(1875)に荻原(おぎはら)村と栃島(とちじま)村が合併してできています。昭和16年(1941)に出雲市が発足し、大字(旧村)が、中野町、武志町、荻杼町、稲岡町、高岡町となり現在に至っています。このとき、川跡村は川跡地区と改められました [2] 。戦後(昭和20年(1945)終戦)には、土地改良事業が行われ、農業の近代化・機械化が大きく進み、それまでの田園地帯の様子も変わりました。昭和時代の後半からは、農地の宅地化も始まり、住宅、商店、事業所などが進出し、人口も増え始めました。これと共に、新しい道路や河川の整備が始まり、いまも続いています。
このように時代とともに地域の状況は変化し、地域に住む人たちも多くなりました(人口推移グラフ参照)。江戸時代から明治時代までの約100年間で約20%人口が増加しました。大正時代の初めにはさらに増えて江戸時代の40%増となりました。その後、昭和40年(1965)頃から急激に増加しました。現在は約1万人の人口です。これは川跡村が誕生した明治時代の約5倍です。ところが、世帯の平均構成人数(世帯人数)は、戦後に減少傾向が始まりました。江戸・明治の頃の世帯人数は4.6人でしたが、いまでは大幅に減少して2.6人です。世帯構成が大きく変化していることがわかります。
[1] 濱村 臺次郎、「簸川郡史」、昭和15年(1940)。
[2] 郷土誌川跡編集委員会編、「郷土誌川跡」、郷土誌川跡刊行会、平成3年(1991)。
2019-09-03 新規登録
2020-10-08 全面改訂
2020-11-05 一部修正
2021-03-07 一部修正
2021-03-29 参考資料修正
2021-03-30 公開